公開日 更新日

父親との突然の別れがきっかけで看護の道を歩むことに

看護師 小山暢子

 私は28歳まで大阪で接客業の仕事をしていました。そのころ東日本大震災が起こり、ボランティアの看護師が現地で活躍する姿をテレビで見ていたのです。「ああやって人を助ける仕事、私もやってみたいな」とつぶやくと近くで見ていた父親が「やってみたら?ぜったいなれるよ」と言ってくれたのです。その1か月後、父親が不慮の事故で突然亡くなってしまいました。朝元気に出ていった姿が最後の別れとなりました。しばらく悲嘆に暮れ呆然としていました。しかし「いったい自分に何ができるだろう」と思ったときに父親の「ぜったいなれるよ」の言葉を思い出しました。あれがもしかして父親との最後の約束だったのではないか?わがままでけっして良い娘ではなかった、だからこそその約束をかなえて見せようと私は看護師になることを決意しました。それから奮起して受験勉強を始め、翌年4月に社会人入試で看護専門学校に合格することができました。

急性期病院、クリニック、地域包括ケア病棟を経験してわかった。
看取りまでできる看護をしたい

 入学後は3年で必ず看護師になると決めて一生懸命勉強しました。昔はそれほど好きではなかった勉強が目標を持つと好きになることを知りました。看護学校の同期は3分の1が社会人入学だったこともあり仲間とともに無事国家試験に合格しました。新人時代は急性期病院に勤務、それから結婚~出産を経てクリニック勤務、その後、家族の転勤で地域包括ケア病棟に勤務しました。ちょうどコロナ受け入れ病院にでもあり忙しい日々でした。地域包括ケア病棟では基本的に3か月すれば退院していくので患者さんがその後どうしているのかが気になりました。父親のこともあり、私は患者さんを最期まで看取れるような看護がしたいのだとあらためて気づきました。

患者さんはもちろん、近くにいる人も幸せになるような声掛けを心掛けている

 2021年7月から吉川病院に勤務しています。患者さんの悩みを少しでも解決できる看護ができるとやりがいを感じます。こんなことがありました。ある認知症の女性は「昔入れた金歯がなくなった」と半年以上、毎日探していました。私は思いついて粘土で入れ歯をつくり金色に塗って「これ?」と渡しました。「ちがう」と言うので今度は往診の歯科医の助けを借りて、より本物に近いものをつくりました。すると「これや!」と言ってそれからは落ち着きました。患者さんにとっては、金歯のことが本当に悩みの根本だったのです。今の生活の中で患者さんがベストだと思えるように自分のできることは何かを考えています。患者さんが笑顔を見せてくれるだけでうれしく、私が癒されるのです。だからいつも自然と「いつもありがとうございます」と声を掛けています。患者さんだけでなく周囲の人も幸せな気持ちになるような声掛が大切だなと思っています。それは「いつでも親切丁寧に」と指導してその姿を見せてくれている吉田師長の影響も大きいです。今でも天国の父親に語り掛けます。「お父さんを看取ることができなかったぶん、まだまだがんばるよ」と。